嘉美心酒造
(岡山県浅口郡寄島町)

 
 

― 鈴木和郎さんは、初めて嘉美心を訪問したときの思い出として、藤井さんと社員の会話が非常に印象的だったという話をよくされます。藤井さんがもろみの具合を聞いたときに蔵人が「順調です」といった答えをすると、藤井さんが「いやそんなことを聞いているのではない。もろみがぬくがっていたか、寒がっていたかということだ」と言われたというのですが、元々技術者ではなくサラリーマンをしておられた方が蔵人となったわけですからさぞご苦労が多かったことでしょうね
 そうです。かなりの年月、蔵人をやりながら酒造りを肌で学びました。先代にはずいぶん厳しく仕込まれましたよ。今はもう造りはしませんがね。
 私どもの蔵では、会社の方針として「経営者の卵は蔵で実務をする」というのが定めでしたが、私の時までは「余分の社員」として遇されていました。しかし今は違っていて、同じ蔵へ入ると言っても息子の常務の場合、製造以外の経営の仕事は時間外にするわけですから実に大変です。
 ただ、こうしたわが社の掟は正解だと思います。酒の息吹は、単なる定期巡回ではとてもじゃないけど体得できませんからね。
 いずれにしても、「蔵入り」が私の原点になっているのは紛れもない事実なんです。

― ところで、辛口全盛の時代に甘口にこだわっておられるのはどういういきさつからですか。
 正確には甘口でなく「旨口」を売り物にしています。いわゆる甘口の酒を柱にしてきた理由は、まず「一番安い酒に沢山米を使え」という先代の教えに従ってきたからですが、高精白米を沢山使い、しかも粕を多く出すという贅沢な造りですから当然コストは高くなります。
 第二に、酸とアミノ酸を少なくすることによって後味をよくするためです。そのために麹の造り方に工夫して温度を通常の十%低くした寒造りであり、また貯蔵についても真夏でも十五度以下にしています。でもこのやり方だと温度管理が難しく、またコストも高くなります。蔵全体を冷房していますし、また蔵の中には集塵機を設置して殺菌した空気を使用するようにしています。製成数量のわりに蔵が大型になっているのはそのためです。新しくこの蔵を建設したのは、昭和四五年(一九七〇年)です。

― 日本酒はゆるやかに衰退の道を辿っています。どこの酒蔵も経営はたいへんだと思いますが。
 残念ながら当社も例外ではありません。お酒の生産量は徐々に減っており、二五年間で約四割減少という状態です。ところが、当社としては、造りに関しては社員技術者を中心としており、杜氏は非常勤の技術顧問にしています。シーズンを通しての季節労務者はおりませんから固定費負担が重くのしかかってきつつあります。そこで今取り組んでいるのが食材の開発でして、これで売上げを増やし固定費をなんとかカバーしようと考えています。

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 「嘉美心」のお酒が醸し出されている蔵の所在地、寄島町は、倉敷と福山の中間地点にある海に面した人口六千人のひっそりとした静かな町である。月刊誌DIMEの取材記事で「平日の昼間だというのに、車一台、人っ子ひとり見かけない。」という記述があったが、私の場合は自転車に乗った女学生に一人出会った。でも周辺は住宅地であるから静かなのは当然なのだが。
 この地は、かつて備中杜氏の中心地であり、蔵の敷地に隣接して「備中杜氏研究所」があったが、現在では七人にまで減った。時代の流れに抗し切れず押し流されていく日本酒業
界の現状を示している。
 藤井社長とは、すでに常任幹事会等でおなじみであり、品質に関しては人一倍頑固一徹であること、穏やかな表情の裏に烈々たる闘志を秘めておられること、また曲がったことは大嫌いなお人柄であることなどもよく分かっているのだが、蔵にお邪魔するのは初めてだ。



 「渚の蔵」の前にて(藤井晃生社長)

 ― まず、酒蔵としての沿革からお伺いします。
 
創業は、大正二年(一九一四年)でして私で四代目となりますが、私が酒造りにかかわるようになったのは、昭和四一年(一九六六年)からで、それまでは六年ほど三菱重工業で人事・労務担当の事務屋をしていたのですが、先代の義父の要請で入社しました。三十一歳のときです。
 酒造りの勉強のため当時の醸造試験所での短期講習に出してもらいました。出席者の中では最年長のオジサンです。今振り返ってみても、このときほどよく勉強し、また夜遅くまで語り合ったことはありません。まさに私の青春でした。